大阪での競艇の初開催は史蹟名勝の池
応神天皇が、かんがい用にと造られた日本最古の記録のある狭山池である
この池には大蛇がすむという伝説もあり、文字通り千古の池である
全国の自治体が戦災の荒廃から立ちあがるため懸命に財源を探していた時代
大阪府民の中にも投機を求める気分があり戦前からの競馬や戦後公認された競輪の好況
さらに海国日本の海事思想普及という"大義名分"も加わり
堺市が中心となって大阪市と衛星都市16市の市長が話し合いをはじめたのが昭和26年の春ごろである
既に長居で競馬を主催していた大阪市は降り
残りの16市が一致してこの事業に取り組んだのが昭和27年の初夏
大阪府とも打ち合わせを重ね16市の市長の合議で「大阪府都市競艇組合規約」の案を作り
それぞれ各市議会の議決をとり
府の地方財政委員会から告示第36号をもって指定の通知を受けたのが7月30日
直ちに一部事務組合設置の許可を申請し、この許可があったのが翌月の8月11日
モーターボートを走らせ競技の運営を担当する「社団法人・大阪府モーターボート競走会」との委任契約
競艇場の施設一切を借上げするについての「大阪競艇施設株式会社(南海電鉄の傍系)」との賃借契約
監督機関である「近畿海運局」(現:近畿運輸局)船舶部監理課を通じてのレース開催届の提出
など
初開催前夜まで作業がつづいた
競艇場は南海電鉄の経営していた狭山遊園の狭山池の東側に
三千人収容のスタンド
五千人分の立見席
投票所、払戻所、格納庫、食堂、売店、選手宿舎などを備え
当時としてはデラックス施設に300人の従事員を用意して準備された
ポスターの街ばり、立看板配り、車内吊、スポーツ紙への記事掲載等々、職員全員くたくたになって
不安と期待の中に初の開催日、9月5日の朝を迎えた
1952(昭27)年9月5日:狭山競走場(施行者:大阪府都市競艇組合)にて初開催される
この日天候晴
招待者も含めて、入場者は九千名を上回り、当時、東洋一といわれたスマートな観覧席は満員の盛況
緑濃い狭山池にエンジンの爆音すさまじく水煙をあげて
初のレースが開始された
記念すべき第一回開催の5日間は天候にも恵まれて入場総数2万4千余名
売上金額は 17、671、000円
決算の結果は 2、617、361円の欠損だった
関係者の落胆は大きかった
その後も狭山競艇場は
地理的な悪条件などで入場者も売上げも少なく
第1レースの投票総数が100枚ということさえあった
「狭山の池」は立派な池なのだが、「競艇の池」となると最適ではなかった
大阪の都心から遠い(南のターミナル「なんば」駅から南海電車で30分)
関係者の必死の宣伝にもかかわらず
入場者は一向にのびず、従って売上げもあがらず
昭和30年春までに国庫納付金の滞納と負債は、積もり積もって実に1,200万円になっていた
関係16市、管理者、事務局などからは何度も解散意見が出ていたが
施設会社(現:住之江興業株式会社)は損をしながらも頑張り続けた
が
1955(昭30)8月:旱魃(かんばつ)で池が干上がりレースが出来なくなり
この事が狭山を去る決定的な要因となった
1956(昭31)年4月10日:水不足等の理由により狭山競走場は閉鎖された
大阪府大阪狭山市
|